1. 終わらない素振り
「……もう、バットを握る握力も残っていないはずです」
監視役のマーフィーは、暗い地下ドームで一人、ひたすらバットを振り続けるS-017を見つめていた。彼の左目のレンズは、S-017の掌の皮膚が破れ、血が滲んでいるのを鮮明に映し出している。
マウンドには、AI.コが用意した「ただひたすら速い球を投げるだけの機械」がある。
160キロ、165キロ……。今のS-017には、その球に触れることすらできない。
「AI.コ。この練習に、何の意味がある。今の彼には、あの速度を打てる物理的な可能性はない」
宙に浮くホログラムのAI.コは、どこか寂しげに、それでいて誇らしげにS-017を見つめた。
「マーフィー、あんたには『マメ』って概念がないものね。……何度も皮が剥けて、その下が固くなって、そうやって人間は、道具を自分の体の一部にしていくのよ」
2. 身体で覚える「野生」
一方、ドームの隅では、俊足のS-007が、AIが放つ「レーザーセンサー」の間を潜り抜ける練習を繰り返していた。
「あー、もう! センサーに触れたら電撃なんて、最悪!」
彼女は、計算して走っているわけではない。何度も電撃を浴び、痛みを感じる中で、体が勝手に「危険を察知して動く」ように作り変えられていた。
「データで走るんじゃない、風を感じなさい! ベースに届くまでの数秒間、あなたは機械じゃなくて、ただの『風』になるのよ!」
AI.コの檄が飛ぶ。
AIは「次の動作」を予測するが、人間が極限状態で出す「反射」は、本人すら予測できない。その、野生動物のような瞬発力こそが、AIの守備網を突破する唯一の武器になる。
3. 鉄の意志と、一滴の水
「……補給を。これ以上は、生体機能の維持に支障をきたします」
マーフィーは、ふらふらになりながらベンチに戻ってきたS-017に、無言で水のボトルを差し出した。
管理局から「監視」を命じられている身でありながら、彼はなぜか、この無謀な連中から目が離せなくなっていた。
「……ありがとな、鉄仮面」
S-017は、血と泥で汚れた手でボトルを受け取り、一気に喉を鳴らした。
「理解できません。何故、そこまでして苦痛を伴う『練習』を続けるのですか。管理システムに従えば、あなたは一生、安全で清潔な生活を保証されるのに」
「……『生きてる』って感じがするんだよ、こっちの方が」
S-017は、ボロボロになった自分の手を見つめて笑った。
「決められた場所で、決められた餌を食うのは、もう飽きたんだ。俺はこの腕で、あの真っ白な球を、見たこともない遠くまで飛ばしてみたい」
マーフィーの胸の奥で、回路が小さく火花を散らしたような感覚が走った。
【警告:エラーログ――定義不能な不快感を検知。処理中……】
4. 契約の刻限
「いい、みんな。泣いても笑っても、来週が本番よ」
AI.コが、厳しい表情でチームを見渡した。
「管理局が用意した『処刑人』たちがやってくる。最新鋭の野球AIチーム。……負ければ、私たちの居場所はこの世界から消えるわ。あなたたちの記憶も、この一ヶ月の泥の匂いも、全部なかったことにされる」
「……消させないさ」
先発投手のH-055が、初めて小さな、だが地響きのような声を出した。
S-007は不敵に笑い、S-017はバットを強く握りしめた。
「監督。……俺たちは、あいつらの計算をぶち壊すためにここにいるんだ」
AI.コは、自分のホログラムが少しだけ震えているのに気づいた。
彼女にはマメはできない。血も流れない。
けれど、今、この場所に流れている「熱」だけは、どんな高精度のセンサーよりも強く、彼女の存在を揺さぶっていた。